アート、デザインと言葉の限界
美術とは何か。何がある作品を美術たらしめるのか。古来からこれらの問いは哲学(美学)や美術史学、そしてその時代の美術家・クリエーターらの領域で議論され続けてきており、便宜上の理由で主に二元論を用い考えられてきた。例えば、fine artとapplied art、アバンギャルドとキッチュ等の対比などが例として挙げられる。現に1920年代の日本でも、芸術に対して商業美術(今のグラフィックデザインに相当するもの)があるという構図が出来上がっていた。ここで注目すべきなのは、何かの対比を通してしか"アート"というものは把握できないという事であるーーつまり、”健康”が”病気の無い状態”と定義され、病気という真逆の状態を持ち出す事により初めて把握できるのと同じように、”アート”も別の要素を持ち合わせたもの(それらはその時代や空間によってもまちまちだが)を通して初めて定義されうる。言語体系の限界をここに感じた。
先日担任の先生から、”デザイン”という言葉は人によって様々な定義がなされている、と伺った。そして担任の先生が長年のデザイナー人生の中で見つけ出した先生独自の”デザイン”の意味もご教示頂いた。(掲載許可は頂いていないのでそのお言葉は割愛させて頂く。)我々の統制された言語体系の中でモノとコトバを無理矢理にでも一対一で結びつけようとした辞書の定義ではなく、先生の生のお言葉が心に沁みた。例えば日本国語大辞典には「…現在では狭い意味で、建築、工業製品、服飾、商業美術など実用的な目的を持った造形作品の計画・意匠をさすことが多い。」とあるが、先生の下さったデザインの定義はこれとは全く違う、血の通った言葉だった。
私も私なりに自分の言葉を獲得し、自分なりのデザインの定義に到達できればなと思う。
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